ホッカイドウのハゲ マッチ擦る日 2

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日シュッと擦ってボッと炎をこしらえる、あれね、軸の頭が発火するのではなくて、箱の側面のザラザラした茶色い部分が発火してのち頭に火が燃え移る、のですって。


マッチは19世紀欧州で発明され、明治初期には日本でも製造がはじまった。
日本でのマッチに関する記述は江戸末頃、蘭学者宇田川榕庵(ようあん)による日本初の化学の教科書『舎密開宗』(せみかいそう)に見られる。イギリスの化学者 W.ヘンリーの"Elements of Experimental Chemistry" (1799)の翻訳本。

舎密開宗のいったいどこにマッチのことが書かれているのかな?


巻7 第130章 燐 ではないかと推察される。
私の理科教師日記
http://rikadiary.cocolog-nifty.com/kusuda/2018/03/10-206c.html

日本海域研究 第46号 - 環日本海域環境研究センター - 金沢大学
http://www.ki-net.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2016/06/JSR_vol_46_full.pdf

 


マッチ棒の先の燃える部分(頭薬)とは(塩酸化カリウム、硫黄、ガラス粉を膠で練ったもの)。
硫黄が使われていたのです。(今では硫黄を含まないか、入っていても少量のものがほとんどである、そうだ)。

火薬などの原料となる硫黄はかつては鉱山から採掘される貴重な物質であった。明治期中頃、知床の硫黄山はゴールドならぬイオウラッシュとなっていたそうな。

北海道で硫黄山といえばアトサヌプリ屈斜路湖川湯温泉に挟まれたあたり、噴煙と鼻を突く匂い、そこは今でもゴウゴウと音を立てていると。行かねば、うむ。


明治期中頃の10年間、釧路鉄道という会社があった。硫黄山の経営権を手にした銀行家の安田さんの経営。

明治20年安田財閥の祖である安田善次郎は、硫黄山標茶間に北海道でも2番目という鉄道を建設し、大量生産・大量輸送を実施したが、乱掘によって資源が不足し、わずか9年で幻のように消えて行った。
弟子屈町の歴史とあゆみ
http://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/05machizukuri/05gaiyou/rekishi.html


黄山は地質の影響からか樹木が育たず、古くは裸の山を意味するアトサヌプリと呼ばれたのですね。

標茶~跡佐登/41.8km 釧路線をクルマでたどる
釧路鉄道を訪ねて
http://pyoco3.c.ooco.jp/hokkaido/kusirotetudou/kusirotetudou.html


「旧安田鉄道跡地」を馬そりに乗っていく体験ツアーがあるとな、これは乗せていただきたいもものだ。


アトサヌプリ黄山の『ネイチャーホール』の展示では伝わらない
囚徒による川湯ーアトサヌプリ黄山の硫黄の採掘と、道路の開削工事の歴史、はこちらのサイトをどうぞ。
アトサヌプリでの本当の硫黄採掘の姿-博物館網走監獄資料より
https://blog.goo.ne.jp/goo5comodo/e/56bf1f391a1d94973446c34a9e7e8a04

 

駅はない、鉄道は消えた、枕木消えた、硫黄は今でもごうごう

 

マッチ製造は国の輸出政策として始動し、各地でマッチの製造が始まります。
北野工房のまち マッチ専門ショップ マッチ棒

http://match.or.jp/matchbou/about

 

 

大正14年に重要輸出工業組合法が公布され、マッチは同法の指定業種となりました。
電子じばさん館 http://himeji.jibasan.jp/match/domestic/index.html

 

明治期、生糸や絹に並ぶ日本の重要な輸出産業でありました。
ホッカイドウのハゲが日本を支えていた、ですかい?

 


マッチ擦る つかのま海に 霧深し ・・・・・
下の句を探しあぐねている、このごろです。

 

 

ホッカイドウのハゲ マッチ擦る日 1

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※合成写真です

 

ホッカイドウと呼ばれて150年、その前の名前? 忘れたわ。今はね、ホッカイドウって呼ばれてんのさ。いろんな生き物が行ったり来たり住み着いたり、そうねえ、そう呼ばれるようになってからのことなんだけどさ、なんかこう、むずがゆいことが多くってねえ、それがあなた、たとえばさ、ハゲになったの、ところどころ薄くなった、つるつるになったとこもいくつかあって・・・・・

 

北海道の森林開発の歴史を読んでいますと、こんな愚痴が聞こえてきましたですよ。

北海道に限ったはなしではない、森林の開拓が過ぎると、洪水などの災害につながるのです。局所的大雨に河川は溢れ家はつかる、道は見えない、畑も消える、ご飯も湯のみも流される、へそくりも貯金通帳も、布団も枕も思い出のアルバムも家の権利書も、仏壇だって流れて消える、水が引いても使いものにならない家屋、治水を法律が誤らせる、ってことなんだな。民は食うために木を伐る、より快適な生活のためにさらに伐りたい、だから管理が必要になる、大局に立ち遠くを眺めやる人が必要だ。100年の計を立てるのは政治のおしごとですのに、この夏にひっそり?決まった某森林法、それからあんなことこんなこと、頭がハゲになりそうなことが立て続けに・・・待て待て、今回のお題はマッチであった。

 

マッチの軸、これに適した木がホッカイドウにはたくさんありまして、ヤナギ科の白楊樹(別名ヤマナラシ)やドロノキを丸太にして茹でて桂むきにしてマッチ棒にして港から出荷、大阪、神戸のマッチ製造業者がマッチに加工する。中国などアジア諸国にも輸出されるなど、マッチは明治期日本の重要な輸出品でした。こんにち生活においてマッチを擦る機会もめっきり減りましたが、明治大正昭和前期まで、煮炊きに暖とりタバコにお線香にとマッチはなくてはならないものでしたから、そうなんです、鉛筆にするためにオンコさんを伐りすぎたように、マッチにするためにドロノキさんたちも伐られすぎて、さてもホッカイドウは9割近くが森林で、道東においてはマッチの製軸工場があちこちに出来たのは明後期から大正あたり。


前回の鉛筆に続いて北海道の森林事業を小さなものから見てみよう、マッチを取り上げます。

豊富な森林資源をようする北海道は、マッチの軸木やマッチ箱(むかしは木製だったのです)の半製品を多くになってきた。それらの多くは神戸に送られそこから世界各国に輸出された。神戸以外のものが国内消費となっていたようです。

燐寸(マッチ)製軸業
マッチ製軸工場をネットで検索してみました。

1891(明治24)年  山田製軸所 網走村 明治30年には藻別村
1895(明治28)年  鈴木八重蔵製軸所 鐺沸村
1896(明治29)年  岩田製軸所 藻別村
1897(明治30)年  三東製軸所 澤木村
           斜里軸木製造所 朱圓村          
           神戸製軸工場 紋別オムサロ
1898(明治31)年    酒井製軸所 紋別村
           小松内製軸所 幌内村
1901(明治34)年  信太寿之 紋別新部
1902(明治35)年  鈴木浩気製軸工場 野付牛村
           丸玉製軸工場(現丸玉木材株式会社 津別)
1903(明治36)年  中沢製軸工場 遠軽

他には
湧別の柴田友蔵、釧路から訓子府に進出した草野製軸訓子府工場  訓子府町
西製軸工場のち大正7年に大東燐寸(マッチ)株式会社設立
森製軸所 杜製軸所 蛎崎製軸所 日本燐寸株式会社猿澗工場 など


北見は白楊の最大生産地、43年には18もの工場が乱立していたが、原料の欠乏により相次いで閉鎖。
44年に山火事で白楊が全滅すると北見の製軸事業も終わる.
大正期にはいると神戸に陸揚げされる軸木の原木は年々減少、ロシアからの輸入が急増。
さっぽろ自由学校「遊」/マッチ産業による有用樹の集中伐採より 
http://www.sapporoyu.org/modules/sy_html/index.php?f=chosa-yanagisawa


(社)日本マッチ工業会が昭和25年(1950年)に発刊した 『燐寸(マッチ)要覧』 によると、 大正初期から昭和3年ごろまでの軸木は、沿海州(現在の極東ロシア)の白楊(はくよう)が約90%、北海道産 ・樺太(からふと)の白揚およびドロの木が、約10%の割合で、輸入材の多くは、兵庫県内(主として神戸市内)の製軸(せいじく)工場で加工されたようである。
燐寸博物館 http://www.tanaka-match.co.jp/museum/kaisetu.htm


当時某マッチ会社から派遣された『軸木原木探究者』は栗毛の馬に跨って北海道の原野を跋渉し、宝庫の鍵を探し求めた
○燐寸盛衰記/並木六壷庵/神戸新聞/昭和2年
網走のマッチ製造業 http://hokkaidonobunka.sapolog.com/e4371.html
殖民の始まりとマッチ製軸業 ~先進的だった紋別地方開拓期の林産業


明治44年の網走港の総移出額は,37万ほどですが,その4割近い,10万円ほどがマッチの軸木の金額
http://houhouken.web.fc2.com/imanarikura.htm

 

さて、美幌町ではどうだったのでしょうか。
美幌町林業は古梅からはじまったといわれている。(美幌叢書第9号 入門 むかしの美幌)
1912(明治45)年に東洋燐寸(マッチ)製軸工場ができた。網走ー池田間に鉄道が開通したのです。
鉄道が開通するまでは古梅の白楊を網走川美幌川を使ってイカダを組んで流送して網走の大曲の山田製軸工場まで運んでいたのですって。しかしこの工場は1919(大正8)年に閉鎖と成りました。

東洋燐寸株式会社とはマッチ王と呼ばれた滝川弁三の東洋最大と称されたマッチ会社。

 

網走の港から神戸に向けて、兵庫県で生産されたマッチは神戸港から世界に向けて輸出された。
港、海、マッチの炎、
マッチ擦る つかの間海に霧深し・・・・


マッチ箱

マッチの箱は紙ではなく経木であった。
マッチの軸は木、そしてマッチ箱も昔は紙ではなくて薄い木でできていました。主に松燐寸博物館 http://www.tanaka-match.co.jp/museum/kaisetu2.htm

1954(昭和29)年には京都製作所において紙製のマッチ中箱を作る中箱製造機が完成し、経木の小箱から能率のよい紙製の小箱へと変化していった。
マッチの世界 http://www.match.or.jp/history/index11.html

経木とは主にスギ・ヒノキ等の材木を紙のように薄く削ったもの。駅弁や菓子折りなどの箱でおなじみ、納豆や刺身など食品を包むのに使う。プラスチック製に追われてしまいましたが、今でも目にすることはあります。復活望む。


つづく

鉛筆と北海道

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キャンプ場に隣接する美幌博物館の特製手ぬぐい

 

キャンプ場には様々な樹木がお名前の札を下げてある。

キャンプ場入口にあるのは美幌の町の樹であるイチイ、オンコとも呼ばれる常緑針葉樹。

このオンコさんは鉛筆の軸材とされたのですって。

 

イチイ(一位、櫟、学名:Taxus cuspidata)は、イチイ科イチイ属の植物。またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。別名はアララギ。北海道や北東北の方言ではオンコと呼ばれ、アイヌからはクネニと呼ばれた wiki

 

年輪の幅が狭く緻密で狂いが生じにくく加工しやすい。

羽根状に付く葉の一本一本は短くふっくらとした針で先は尖っているけどむずいくらい、

初秋に赤い実がなる、種子は毒を含む。

 

雌雄異株、北海道ではサカキやヒサカキなどがないため、神前の玉串にもイチイの木が使われています。https://kurashi-no.jp/I0012308

 

 

美幌に近い斜里の町には樹霊塔があるのです。樹の慰霊。

「斜里原産オンコは優れた木質が最高適材に選ばれ北海道鉛筆原板発祥の地となり斜里町財政を支えた」一位樹霊塔の説明より

下記のアドレスに画像がご覧いただけます。

北海道応援のブログ

https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12224170437.html

 

大材は北海道方面、育ちが遅く材は緻密であって、淡赤色、弾力があり国産鉛筆として最上であった。イチイを原料とする鉛筆軸木工場は大正初期から昭和初年に掛けて資源の豊かな北海道の斜里地域に水車を動力とする鉛筆軸工場が15工場操業を開始した。昭和8年には鉛筆軸企業も広域化し、斜里中心に道東一円30工場が操業した。【土橋勝利】

木のメモ帳

http://www.geocities.jp/kinomemocho/zatu_pencil.html

 

 

(ところで、斜里の町の樹はミズナラ 町の樹とは誰がいつ決めたのでしょうね)

 

この樹は鉛筆の板材として伐採されすぎた、それで供養しましょうとなったわけか。

全国の鉛筆の6割は北海道の木材であったとか、そうですかー、北海道のオンコは日本の知を支えてきたのだと言ってもいいのではないでしょうか!

 

「ボクも!ワタシも!えんぴつ大好き」 日本鉛筆工業協同組合のサイトを見てみましょう。

http://www.pencil.or.jp/index.html

 

昭和15年の記録によると、北海道産の軸木板としては、オンコ30%、シナ10%に対してヤマハンノキは実に60%を占め、数量にして216万グロス鉛筆板工場は、昭和17年で全国に48ヵ所あり、このうち半数以上が北海道にあり、主力の20工場で北海道鉛筆材工業組合が結成されていた。鉛筆板の販売は、この組合を通して、同組合東京出張所より、組合指定販売人に卸され、ここから鉛筆製造業者に渡る仕組みになっていた。

(白羊鉛筆40年のあゆみより)

 

北見材と言ってサロマあたりの木材が鉛筆材にされた。なるほど、鉛筆材の製材工場が多かったのか。北見材、ふむ、明治期は網走あたりを北見と呼んでいたそうな。

明治末に佐呂間に製材工場を作った北星鉛筆の全身は昭和18年には釧路に本社を構えている。

 

きたぼし、と読む。北星鉛筆は現在は東京に本社を置く老舗の鉛筆会社のサイトに当たる。

 

屯田兵として北海道に渡り、鉛筆の板「スラット」を製造する会社を設立して全国に販売していました。

筆を使う書記であったこともあって、これから大量に鉛筆が必要な時代になると察知し、鉛筆の板材の製造を始めたようです。

その後、関東大震災で経営の行き詰った鉛筆製造会社を引き継ぎ、現在の地に会社を設立しました。

きたぼし

http://www.kitaboshi.co.jp

 

 

「スラット」と呼ばれるハガキ大の板に溝をつけて鉛筆の芯である黒鉛をおいて板で挟んで軸幅に切っていくのですな。板の加工はこちらをどうぞ

http://www.pencil.or.jp/museum/museum.html

 

 

まっすぐに伸びる幹と綺麗な円錐形を保つ樹姿が美しい。

北海道や東北北部などの寒冷地では、和風庭園の主木、生垣、植え込みの定番となっている。

オンコの姿形はこちらをどうぞ 

庭木図鑑植木ペディア

https://www.uekipedia.jp/常緑針葉樹/イチイ/

木のメモ帳

http://www.geocities.jp/kinomemocho/zatu_ichii.html

 

 

えんぴつになって消えていったたくさんのオンコさんたちでしたが、

町の樹オンコは美幌の町でいたるところでお見かけます。

見上げる高さに盆栽の枝ぶり、街路樹のあれは何?

 

松なの?

庭木を手入れなさっておいでのお宅にも幾つかお見かけします、最初見たときは理解が及びませんでした。和風庭園にある松の剪定と言いましょうか、盆栽の枝ぶりと申しましょうか、近寄ってみまして、

 

いえいえあれは松ではありあません、あれはオンコ、紡錘形が美しい姿を松の剪定かのごとく内地風に刈り上げているではありませんか。

いやーどうにもこれはなんともいやはやでございます、いやいやしかしながらですね、美というものは力学にいう力の釣り合いの点のような瞬間に現れる、いわゆるある種の見え方、でございましてですね、云々

 

ここ北海道では違う美的感覚が強く作用しているゆえの現象である、と考えてみる。

冬なぞ厳しい寒気の中、縮こまった葉でいっそうあずましくない、と感じた己を納得させる。

 

 

鉛筆からみてみた北海道の樹、それでは次はマッチからみてみたくなりました。マッチの製軸工場が多かったのですよね、、大曲(網走市)に北海道最初の製軸工場が設立されたのは明治20年頃のこと。

 

つづく

 

えんぴつのおまけ

 

筆記用具

1943年頃から、トンボ鉛筆は「敵性語の撃滅!」と題した新聞広告で、鉛筆の濃さの表記を以下のように変えると告知した。

「HB」→「中庸」(ちゅうよう)

「H」→ 「1硬」(こう)

「B」→ 「1軟」(なん)

 

 

鉛筆のはなし(北海道を中心にして)

文具資料室

http://karikachi.kitunebi.com/bungu/enpitu.htm

 

 

ネットで見つけた 2018/06/19 - 鉛筆収集家にきちさんの日々のつぶやき. ... 

https://twitter.com/nikichi73

 一番活気があった昭和33年頃からの大まかな北海道内のスラットの生産量と製材所をほぼ把握出来そうだ。やっていた本人も資料を持っていなかったり忘れたらしているからこれは大変な発見だ。

 

二・二六事件の頃、とある木工場でヤマハンノキ材の鉛筆板が開発された。開発したのはO氏となっているが、僅か数ヶ月後にI氏が鉛材工場を本格事業化したのは無関係では無いだろう。意外なのはハンノキ材は既にドイツで鉛筆になっていたということ。ヨーロッパで広葉樹の鉛筆?

 

1920年代中頃には、フランスの鉛筆はシナやハンノキで作られるようになっていた、と「鉛筆と人間」に記述がある。これなら世界的なレッドシダー不足が予想される中、厚岸からオンコを鉛筆用に輸出しようと考えるのも理解出来る。(大正時代の話)

 

  

日本鉛筆工業協同組合 鉛筆組合史年表より

 

明治42年(1909)北星鉛筆の創業者だった杉谷安左衛門が、道内のオンコ(イチイ、アララギの北海道方言)を鉛筆の軸木板として使用する。北海道材が、鉛筆の歴史に初めて姿を現わす。

 

・ 眞崎仁六の眞崎鉛筆製造所が現在の三菱鉛筆株式会社に、また河原徳石衛門の門下生の杉江鉦三郎と共に鉛筆づくりを始めた小川作太郎が、現在の株式会社トンボ鉛筆に、それぞれ発展している

 

 

6角形の小屋

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とどまつ、からまつ、くるみ、ぽぷら、しらかば、かつら、もみじ、、、

美幌みどりの村の森林公園エリアのキャンプ場の幾宿泊施設、19棟ある小屋にはいずれも樹の名前が付けられおり、水道設備が共有のバンガローである。  

大小4タイプある中で一番小さなマッシュルームと命名されているキノコ型キャビンは3棟、土台の部分は鉄製、近隣の町のキャンプ場にも同じ形の小屋が設置されたが、鉄ではなく木材の足であったことでカサの部分を維持できなくなってしまったとか。

マッシュルームと呼ばれて30年以上この美幌の地に一本の足で立ちつづけている。

 

室内空間が6角形なのです。聖徳太子の夢殿は八角堂ですが、六角もまた俗世を隔てる空間であります。

自分を囲む空間が6角形、一本足の上にある六角垂の壁面が外部と自分とを隔てている。この空間の出入り口は小屋の床面、地面と平行にある、梯子段を上がり頭で蓋をこじ開け、背中でさらに押し上げてフックで固定する。

空中の六角垂の部屋、子供だったら一生忘れられないと思う。

 

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今回の移住体験は10日間、グリーンビレッジという体験型宿泊施設を利用したのですが、全泊連続は予約できなかったので隣接のキャンプ場の小屋に泊まってみることにした。3泊ほどこのマッシュルームで過ごしたわけです。

室内には何もない、室内は照明の蛍光灯があるばかり、椅子も机もコンセントもない。トイレは共同トイレでして、これが歩数にして200歩以上も離れたところにある。マッシュルーム近くにあるシャワーは小屋ブースで5分200円。洗濯機使用は無料です。

 

カーテンのない窓からの朝の光と木立の小鳥のさえずりで目覚める清々しい朝、もありましたけど、主に小鳥ではなくてカラスね、んかあ~んんがあ~と賑やかなこと。人のいるところにカラスあり。

赤い靴を履いた探検家2

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北海道に初めて行ったのは28歳の時、それから41歳までの間に6回歩き回りましてね、いろいろなことがわかって、あれこれ伝えたくて本にしたのですけどね、150冊ほどにもなりますか、大手の出版社から出たものもありますけどね、多くは自費出版でしたよ、訪れた土地の地形を絵図にして、そこいらのあたりはなんと呼ばれているかをカナで細かく書きこんで、私まぁ手の動くほうでして、サラサラっと、ふふ、その土地に暮らす人々の様子も筆にしたり、いぇね、本にするときはホラやはりね、人気のあるプロの絵描きに頼んだものでしたよ。

 

松浦武四郎、幕末の探検家、彼は攘夷の志士であった、ようですが、身分は百姓、伊勢育ちで伊勢参りの人々の姿に諸国回りを夢見る少年でした。ハイティーンで生家を離れてからは、全国を回る旅、出家して長崎におりました時に耳にしたロシアの南下に危惧を覚えるや、韋駄天武四郎、エゾと呼ばれる北の島々に飛んでいく、北の守りに必要なのは地理をつまびらかにすることであると、達者すぎる歩行で蝦夷樺太、国後、択捉などを駆け巡る、江戸で蝦夷に関する本をたくさん上梓し、蝦夷通と知れ渡るほどになるのですけど、長いこと蝦夷を縄張りとしてきた松前藩にとっては迷惑な人、危険人物、仕切ってるエリアに断りもなく乗り込み、山脈水脈道路集落、綿密な出来の蝦夷地図や土地の人々の暮らしや言葉を記録して本にするやら、松前藩の奸商とのよからぬあれこれを告発するやら、松前藩は松浦さんに刺客を放った、のだとか。江戸などの学者さんたちも、分をわきまえぬ奴よの、学歴ないくせに、とくさしたんですってさ。

 

道なきを駆け抜け、エゾだけではなくカラフトもクナシリもエトロフもまわる、ラッコがぷかぷか浮いている北の海で丸木舟に揺られる、アイヌの言葉も覚え辞書も作る、ときたもんだ。

 

では、北海道という言い方は松浦武四郎が命名、というワンフレーズ濃縮過程をみてみましょう。

 

蝦夷とは中央政府から見て異民族を指す言葉で、これからは日本として運営していこうというのだから、それにふさわしい名前をつけるべし、となりまして、

武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼され提出した「北海道命名に関する意見書」の中で、6つの候補名をあげた。

北加伊(ほっかい)道、海北道、海島道、東北道、日高見道(ひたかみ)、千島道。

六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられた。

が、しかし、

開拓長官の鍋島直正(まれにみる賢君と呼ばれたようです)ら要人らの間で話し合いが持たれて

「加伊」の部分を「海」とし、「北海道」と決定されたようだ。

 

>「北加伊道」に込められた想い

「加伊(カイ)」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて、「北加伊道」という名を提出しました。

(たけしろうカンパニー https://www.takeshiro.co/blank-8

 

 

1867年(慶応3年=明治0年)の7月から9月にかけてのことである、

ふむふむ、開拓の長官と要人ら、ですか、

なんだかね、テレビに見る再現ドラマの映像が浮かんできませんか?

詰襟高くヒゲなんかご立派の様子の旦那方がしかつめらしく、

う~む、ごにょごにょ

加伊はなあ、なんて。

 

場所は?北海道庁の会議室?旧北海道庁とは、煉瓦造りの西洋建築、1888(明治21)年に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築。このたてものはまだなかったですね、その前身の開拓使札幌本庁もまだなかった頃ですし、では、江戸ならぬ東京のどこか、開拓使庁の建物か、それはさておき、

 

 

松浦さんはこの決定をどう思ったのかな?

 

スクロールし続けますと、こんな文言が、

 

>当時の武四郎は,北の海の世捨て人を意味する「北海道人」という雅号を使っていたため,「北海道」という字を使うと,自分の雅号を名称にするなどおこがましいという批判が出るので,それを避けるために,「熱田大神宮縁起」に出てくる「加伊」の文字を用いたとされる。武四郎が開拓判官に登用されたことを妬む者も多かったのである。

三重県ホームページ http://www.pref.mie.lg.jp/DOKYOC/HP/20454021135.htm

 

>「熱田神宮縁起」という古い本の中に「東の方に住む人々は、自分たちのことを加伊と言う」とあることを指摘し・・・・・

アイヌ民族を愛した松浦武四郎 山本命 松浦武四郎記念館学芸員 

https://www.frpac.or.jp/about/files/sem1622.pdf

 

 

>「道(どう)」というのは、律令国家りつりょうこっかの地方行政の基本区分です。起源きげんは古代中国で、それにならって日本でも天武朝てんむちょう(7世紀後半)に成立しました。

みやこに近い5つの国(山城やましろ、大和やまと、河内かわち、和泉いずみ、摂津せっつ)を畿内きない五カ国とし、それ以外を7道(東海道・東山とうさん道・北陸道・山陰

さんいん道・山陽道南海道・西海さいかい道)に分けました。・・・すでに古代から、東海道西海道南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。 

北海道庁ホームページ http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/faq/faq02.htm

 

 

>武四郎は「天塩日誌」の中で「北海道」命名についてふれている。
 音威子府村には「北海道命名の地」の碑が立てられているが、そこのエカシ(長老)アエトモに「カイナー」の意味をたずねたところ、「カイ」が「この国に生まれた者」、「ナー」が敬語と聞き、「北加伊道」という名前を思い立ったという。

江別市立対雁小学校ホームページ http://www.ebetsu-city.ed.jp/tuisi-s/matsuura.html

 

 

アイヌと付き合いのある多民族によって「クイ」のような音で呼ばれていた、ということなど・・・「北海道」という地名には、同じ土地に対する先住民であるアイヌの人たちの視線、近隣の異民族の視点、そして侵略者、植民者としての和人の視点の抗争の歴史が潜んでいるということである。

(記憶の彼方へ http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070915/1189864556

 

 

和本の画像があずましいサイト

松浦武四郎記念館 https://takeshiro.net/about

 

 

彼は幕末時代からの蝦夷通として、維新後、明治政府に雇われて開拓判官(今でいう次官に匹敵)にまで出世したのですが、明治3年西暦1870年、わずか半年後ですか、

役人を辞めてしまうのですよね、明治政府のお勤め、いやんなったわけだな、

藩幕体制から続くアイヌ民族への抑圧と搾取、アイヌも「日本国の民」であろうに、近代国家(!)としてどうよ、そもそも人としてどうよ、こんな体たらくで北の守りなんかできますかいな、ってなところでしょうか。

 

そのあと、1888(明治21)年に亡くなるまでは、執筆したり、方々歩いて好きなモノを集めたり、山に登ったりのお暮らしだったようで、いい晩年かと思われます。

 

宮勤めお辞めになったのは、北海道開拓の方針の違いが原因、とかゆい説明がありますが、まあ、松浦さんのお考えが開拓政策に反映されなかった、「ノンキャリ」ゆえ軽んじられていたようで、それでやんなっちゃった、のでしょうが、それだけでなくて、お役所仕事のデスクワークより歩きたかった、というところもあるように思うのですよ。

 

女の子が赤い靴を履くと、靴が勝手に踊って止まらなくなってしまうーアンデルセン童話では、教会に行くのに黒ではなく赤い靴を選んだことへの罰として、という内容ですけど、黒い靴より赤い靴を選ぶ、それはたとえば、こころに赤いトゥシューズの、踊り続けるバレエダンサーのようだ。

憑かれたように歩く、彼の一生とは、踊るような旅であったのかもしれない。 

 

 

記録、大事です。

バイトしていた店の棚に松浦武四郎の本もありました。

北方民族のライフスタイルもしっかりチェック。

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・北蝦夷餘誌

松浦武四郎 安政7 多氣志楼蔵板 元装題箋・彩色木版図入 

カラフト(現在のサハリン)南部紀行本。 

 

「北方民族の家建方」住居のタイプのひとつ、テント。

狩猟採集のライフスタイル。

木の枝などで枠をつくり、樹皮や獣の皮で覆う。

右の2つはタライカ人 左の上はニクブン人(ニブフ) 左の下はヲロツコ人(ウィルタ

カラフト南部はアイヌ民族が、中部以北にウィルタ民族、北部からアムール川流域にかけてはニヴフ民族が暮らす土地であった。

タライカとは、北知床岬の湾多来加湾のことか。

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古典籍が画像で見られる

早稲田大学 古典籍総合データベース

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_02176/ru04_02176.html

 

 

美幌図書館にで借りた参考資料を付記

 

北加伊道 松浦武四郎のエゾ探検  関屋敏隆 ポプラ社 2014

これは絵本、武四郎のあしどりや蝦夷の地やアイヌの暮らしぶりや彼らとの交流が描かれている。型染版画という手法ですって、木版画の線よりやわらかい。

 

ほっかいどう百年物語 中西出版 2002

 

松浦武四郎「刊行本」書誌 高木宗世芝編 北海道出版企画センター 2001 

 

最後に、ネットでゲット美幌情報

美幌町生まれの元・中学校教員、北見市内在住の男性のお著書を紹介

 

>第22回林白言文学賞にの伝記「北海道 150年郷土に残した『松浦武四郎の足跡』」(さいはてのふだん記発行)が選ばれた。

林白言文学賞を受賞(北見市/社会・文化)

松浦武四郎の足跡」は北海道の名付け親でもある松浦武四郎の生涯をたどった伝記。ほとんど未開拓の蝦夷地をアイヌ民族と交流しながら歩いた武四郎のことを、定年退職後から長い時間をかけて調べ、一冊にまとめた。 「このオホーツク地域を丁寧にたどっているところが新しく、非常にわかりやすい内容で子どもも大人も満足できる、松浦武四郎の素晴らしい入門書」(平野議長代行)と評価。

美幌音楽人加藤雅夫 http://masaokato.jp/2017/12/24/001417

 

 

 

赤い靴を履いた探検家1

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ようこそ、道東にお越しくださいました。道東には5つの空港があります。ここはそのひとつ、女満別空港

空港ビルに設置された到着の文字看板、到 いたる その場所に行き着く。到達する。

美幌町には空港からクルマで10分ほどでいたります。JR石北本線美幌駅は、特急の止まる駅です、バスターミナルもそばにあります。札幌までは高速バスでほんの5時間。

 

蝦夷地と呼ばれたこの地に、道路も線路も飛行機も無い頃、土地の人々アイヌ民族の協力を得て、北海道をくまなく歩き回った探検家がいた、今日、その人は「北海道の名付け親 松浦武四郎」と語られ記憶されています。

ワンフレーズに濃縮された松浦さん、唯一の肖像写真では、長い長い首飾り(全国の勾玉(まがたま)などを集めた「大首飾り」)をぞろりと巻きつけ飄々とした面持ち、ワンフレーズに至る道はどのようなものだったのでしょうか。

 

 私は古本屋でアルバイトをしていた。

その店は通販のみの営業で主に江戸期の古書を扱っている。自然誌一般を扱う専門書店として始めた神保町界隈の古書店のひとつであったが、取り扱いを徐々に和本に移して行った。一時間かけての通勤から解放されたい店長は事務所を自宅に変えた。商売の規模を小さくする方向でもあり、私の古本屋バイトは終わった。

 

 その店にはフェイスブックのページがある、私が店の在庫で気になるものの画像を投稿するためのページとしてフェイスブックの場をお借りしていた、というあたりが実態ですが、「投稿」することができるくらいで他の機能はさっぱり理解していないままであった。店長はパソコンが苦手で、おそらくほとんど自分の店のフェイスブックを開いてみたことはない、と思われる。私がバイトを辞めてからは放って置かれている。誰にも更新されることなく今日もネットの大海原に漂っている。

 

移住体験で北海道を知るようになるとですね、取り扱っていたものに蝦夷関連のものが多かったことを思い出してきます。

 

 

 

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・幕末発行のアイヌ語の辞書

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉。

北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語アイヌ語アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族。Wikiより)

 

西暦1854幕末、北海道周辺図が掲載されたアイヌ語単語帳より

蝦夷 韃靼 唐太 西ヱソ海 東ヱソ海 などの表記がみえる

大便 ヲショロマ をしよろま とある 

野田サトル漫画『ゴールデンカムイ

アイヌ少女「アシリパ」が和人の味噌を排泄物と思い込むなど作中で何度も繰り返し使われる単語「オソマ」のことか。

上原熊次郎 蝦夷語箋 附録魯西亜語

豊雲樓蔵版、嘉永7 

口絵/印、朱墨にて補遺書入れ有、替表紙

封面無

 

和本とは、江戸期以前の和綴じの本、背を糸で閉じた冊子。

版木と呼ばれる凸版の板を和紙に刷り写す、和紙は半分に折って重ねていく、その束を糸で綴じる

版木は凸版、山桜の木が具合が良いようで、木の板に文字や絵が凸で彫り出されたものなんですよね、

お見事な線、なんという手間でしょう。

明治に入って本は今のような体裁になった、それらを和本と区別して洋装本とも言う。

 

蝦夷語箋 附録魯西亜語」、この辞書は袖珍本(袖に入れて持ち歩ける大きさ、ポケットサイズ)、著者は上原 熊次郎、江戸時代後期のアイヌ語通詞。

通詞とは通訳するお役目の人。

 

 

江戸後期、ロシアの南下に備えて幕府は北の守りを迫られていた、

ロシア語や蝦夷地など北方に暮らす人々の言葉を知るために語彙帳が出されたのですね。

 

松浦武四郎も土地で学んだ言葉を本にしています。

 

蝦夷語 / 松浦武四郎

(エゾゴ)

成立年 嘉永3年 (1850)

内容説明 11門に分類した和語・アイヌ語辞書。1451語を収録す。 活字翻刻本:吉田武三編「拾遺松浦武四郎」昭和39刊、吉田武三編「定本松浦武四郎(上)」三一書房 昭和47刊 (写本等は所蔵していない)

請求記号 北 920-Yos(北大北方資料室)

収載目録名 日本北辺関係旧記目録

レコードID 0A023730000000000

北海道大学 北方関係資料総合目録)

 

 

 

北海道という言い方は松浦武四郎が命名、というワンフレーズ濃縮

 

今年は北海道150年、と喧伝されていますが、では、

なしてここはエゾではなくホッカイドウというようになったの?

いやその前に、エゾとは?それが北の海の道?

誰がつけたか君の名は?

 

ネットで検索する、上位にくるのが、これ、

「北海道の名付け親 松浦武四郎

 

あれ?なんだっけか、そうじゃないんだよね、いやそうなんだけど・・・

 

ワンフレーズに濃縮されたこの表現、あなた、どうよこれ、

あ、そうなのね、松浦武四郎、聞いたことあるかも、

こうして時間の流れの波間に消えていく。

 

時間の川の水が流れ込むネット海原における航海術、スクロールの櫂をこぎ続けますと、

松浦さんの提案したものにすんなり決まったわけではないことがわかってきました。

 

見えてきました島々の影、「海」ではなくて「加伊」であった、新政府に問われて松浦武四郎蝦夷地の命名に提案した一つが「北加伊道」、だったんですよね。

 

ところが、最終的には「加伊」ではなくて「海」の字を用いて「北海道」と決定されまして、

「北海道という言い方は松浦武四郎が命名」なるワンフレーズが広く知られることになっていってるようで、

 

では「加伊」とは? 加の字と伊の字、音はkai、なんでしょう、これは?

 

以前このブログで、北海道の地名に漢字をあてたのはいつ誰が?という疑問を取り上げましたが、

蝦夷地の命名以前のこと、松浦さんは各地の地名に漢字をあてる試みをなさったようで、彼の漢字チョイスがさて、採用されたところが多いのか、どうか。

 

 

当ブログではネットでたどり着ける領域、しかも日本語、での海域で漂っております。

ネットで検索していて思うことですがーーー、

ワンフレーズを鵜呑みにして、上位に来ずば存在せず、のようなリサーチで出来上がる情報のコピペの危うさ。

調べ物は、より古いより広い範囲の文献にあたることが大事ですけど、そうなると紙の資料ですよね、和本は、より古い記録装置です。

倉庫借りて保管して取り扱う日本の古本屋はこれは文化事業でありますでしょうに、それがですね、日本では売れたものだけではなくて在庫全体に税金がかかるのですって。ガーー

 

記録、大切です。

わかりやすさが勝敗を決めるかのごとくな単純化されたネットなどの情報が検証されることなく拡散されて、これまで積み重ねてきた知識を書き換えている勢いが止まらない様子に唖然慄然となります。瞬殺の上書き文明・・・・・・

 

つづく

何もない春

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いくら丼 2,380

鹿の頭 186,000

 

襟裳岬灯台、高さ14メートル、まるっちい白いキャップがめんこい、岬突端を歩いてみたくて車を止める。パネルバンの軽トラが揺さぶられる、風が強い、今日が特にそうなのか、風圧でクルマのドアが開けにくい、降り立つ、うわあキッツイ風、

そして磯の香り。

たてものの中に逃げ込む、いやあ、できればここに寄りたくはなかった、えりも岬観光会館センター、だからっ、やはりっ、できれば避けたかったのですよ、なぜって、

「襟裳の春は 何もない春です」、必ずこれを聞くことになるのだろうな、嫌いな歌ではない、昨今の流行歌より歌詞の解釈に広がりがあるでしょう、はい、だがしかし。

 

日本の観光地に行けば必ずやご当地産食材使用の食堂があり、土産物売り場があり、エプロンをつけた地元の女性たちがたち働く。割り箸と爪楊枝、醤油の卓上便とビール販促の卓上ポップスタンド、メニューの書かれた紙。

 

鹿肉ラーメン1,350円を注文した。たてものに滞在したのはおそらく半時間ほど、その間ずーっと「何もない春です」なのですよ、女性の歌声のものと男性(森進一)の歌声のとが交互に、波のようにおしてくる、この曲が世に出たのは1974(昭和49)年、それでは、BGMとなったのはいったいいつから?30年くらいはずーっとこの曲なのでしょうか?えりも岬観光センターさん?

 

1889年(明治22年)625 - 初点灯。

1945年(昭和20年)715 - 第二次世界大戦時の爆撃で破壊される。

1950年(昭和25年)23 - 再建。

 

「何もない春です」に対して、当初えりもの人々の抗議があったそうですが、

モノが無いわけではない、のです、町の灯もある人もくらす風はたっぷり。いろいろそれなりにアル、それなのに「何もない」と表現したことは素敵なことだと思いませんか?

 

ワケのわからないことでわやくちゃになってる気持ちの外に立ってみた春、強い風にわやわやが吹っ飛んでいきますしね、暖炉でいろいろ燃やせるのはいいですねえ。

 

だがしかし、気になるのは、観光センターでずっとずっと同じ曲が流れている年月です。

ご当地ソングで検索してみますと、

島倉千代子 襟裳岬 (全然別の歌詞と曲)1977 もあり。

時々はこちらも流れるのかな。

 

 

えりものおぉはるうぅうはぁああなにもぉおないはあるうですぅ

観光センターを出て数日間、これがあたまの中に波のように寄せては押し返すのでした。