白いドロップ

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ドロップ
砂糖80%と水飴20%
水飴によって砂糖の再結晶化が防げられてできた透明な外観が特徴(wiki)


国産ドロップが誕生したのは明治41年(1908年)のこと、今年で100周年。缶入りで発売されたサクマ式ドロップス
イチゴ、レモン、オレンジ、パイン、リンゴ、ハッカ、ブドウ、チョコ、8種類の味。何が出てくるかわからないところが面白さ、なのか、缶入りのパッケージは今だ健在。

研究に研究を重ね、ついに外国製品に負けないドロップが完成。新鮮な味覚と風味を生む独自の製法は「サクマ式製法」と呼ばれ、特許庁よりサクマ式ドロップス登録商標が認められた。(佐久間製菓のホームページより)

いいですか、サクマ 式 ドロップス。「式」がポイント。
缶入りのサクマドロップス、実は2つの別の会社から出されている。戦後に会社が分裂したすえのこと。
赤が基調の缶は、「佐久間製菓」が製造・販売する「サクマ式ドロップス
緑が基調のは、「サクマ製菓」がつくる「サクマドロップス」。こちらのサクマさんはまるくてちっちゃくて三角の「いちごミルク」が人気。

透明な外観が特徴のドロップですが、ハッカの味は白色。透明にあらず。
もともとハッカの原料は透明だが、飴に空気を抱き込ませる事で色味を白くしているのだとか。
子供の頃、私はハッカの白い粒が出てくるまで、いつまでも缶を振っていた。今でも缶を手にすることがあれば、きっと白いハッカ味が出てくるまで振ると思う。

サクマ式のハッカ、これはどちらの産地のものだったのでしょう。

 

f:id:bihoro009:20180118194647j:plain はっか豆の袋のイラスト

ハッカはハーブです、シソ科ハッカ属。ペパーミントやスペアミントなどは西洋ハッカと言えます。
ミントとハッカはお仲間、ということ。漢字で「薄荷」、ふーん、荷が薄い、ですか。大量の葉から採れる油はわずかな量、なのですと。

北見は美幌のおとなり、明治30年代頃から和種薄荷の栽培が盛んになり、往年には世界ハッカ市場の7割を占めるほど、北見の礎(いしずえ)を形成する重要な産業となった。北見のハッカ製品を手広く扱うのは北見ハッカ通商、どの品もパッケージはペパーミントグリーン。

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ハッカ油の瓶はおなじみですが、ハッカの結晶もおすすめ。ハッカ油をじっくり冷やして結晶化させたもの。
ハッカ油の主成分はLメントール、和名では薄荷脳、さわやかで特異な香りがする無色針状晶。

色が無くて針の形状のハッカの結晶、「薄荷脳」と呼称されてきたようですが、はっかのう?脳?ノウ?
脳、という漢字は今では頭部の脳に限定されがちですけど、この脳とは髄脳、最も重要な部分。 奥義(おうぎ)。心髄。の意味で使われているのですよね。
そうなんだ、結晶とは奥儀なのか!
単にハッカ結晶というより意味が伝わります。含らみを感じる。
(とは言ったものの、薄荷の脳、漢字で書くと、ちょっとツライですかね‥)
匂いでいうと樟脳も脳ですね、クスノキ中に含まれ,材片を蒸留して得られる特異な芳香のある無色透明の板状結晶。樟脳、という言い方は今あまり耳にしなくなりました、なんでしょうね、言語から意味が見えなくなっている。ミントだメントールだ、と言うから分からなくなるんでないかい、と控えめながら苦言を呈しているページを発見。
薄荷を探究する北見ハッカ通商ホームページ
素朴な疑問にお答えします
http://www.hakka.be/role/faq.html

薄荷脳は無水エタノールに溶かして使います。ポリスチレン(PS)容器は不可。
芳香剤、虫除け、入浴剤、多方面に活躍することでしょう。
蟻の大群にまいておいたら跡形も無く消え去った、との報告あり。
体験住宅の洗面台のフェイスタオルはハッカの香りがしました。

スズランとカエデ

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美幌駅あたり、ゴマ油風味の海苔、のような甘い匂いが漂っている、
駅の裏に砂糖工場がある、甜菜から砂糖を作っていて、日によって匂いが違うらしい。

美幌駅に併設されている物産館ぽっぽ屋で、砂糖の袋をお土産にすすめられる。
これまで小分けで販売されることがなかったのが、300グラム入りで発売されるようになったとか。
北海道オホーツク ビート含蜜糖 日本甜菜製糖株式会社
「スズラン印」、である。
日本甜菜製糖株式会社、北海道を生産拠点として製糖事業をおこなっている。略称は「日甜(にってん)」または「ニッテン」。1959年(昭和34年)10月 - 美幌製糖所完成。(wiki)

 

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 砂糖の袋に見るブランドのマークで思い浮かべるのは「ばら印」や「スプーン印」などです。塩や醤油や味噌でこれほどまとまったブランドイメージがないことを考えると、製糖業の発足や発展は大きな資本によるものだということでしょうか。

甜菜(ビート)から砂糖ができるまで
日本甜菜製糖(株) 美幌製糖所
https://www.youtube.com/watch?v=IXz5KwA-vsE

 

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美幌はお菓子屋が多いように思われる。

美幌町で甜菜の栽培が奨励されたのは昭和30年代からのこと、
砂糖工場とお菓子屋に関係があるような、さほどないような。
体験住宅に近いのはひらの菓子司。
この店で一番長く扱っているのはどれですか?サイロのこれなどは?
そうですねえ、それはよそから引き継いたものですけどねえ。
おっとりとしたお返事、一番古いのは、うちですかねえ、ひらのさんは創業100年だとか。

 

f:id:bihoro009:20180116101818j:plain 赤のは無かった、次回トライ

物産館で購入した瓶入りメープルシロップ美幌町のカエデから採取するシロップ。
赤と緑のラベルがある。緑のラベルは「オホーツクメープルシロップ」こちらはイタヤカエデから採取、赤のラベルは「びほろメープルシロップ」カラコギカエデから。瓶正面に貼られたラベルデザインを見ると葉の形が違うことは伝わる。

お箱は無い、簡素で結構、
瓶の裏を見る、品名、樹液原木名、正味期限、内容量、保存方法、生産者、販売者、必要であろう事項がただ列挙されている、

体験住宅情で報誌「HO」(Vol.106)を読み、赤のラベルの貴重なことを知る。
「誰も樹液を採れるとは思っていなかったカラコギカエデ」から試行錯誤の末ようやくたどり着いた樹液の濃縮法、なのですと。今年(2016)御年80歳になられる元酪農家の翁が代表をつとめる美幌町樹液研究会が、北海道の助成を受けて5年計画で1万2千本のカエデを植える。

「これで将来の基礎が固まります」

木を植える、育てる、遠い先まで見ていないと出てこない言葉ですよね。

美幌町の名物が将来は世界一になることを目指す、と代表は笑顔で語る。代表ご夫妻の遠大な理想を込めたシロップなのですけど、物産館の売り場では、冷蔵のガラスケースに、箱も無く能書きも無くウンチクもわからず、ただ瓶が並んでいたのでした。

故事来歴などを書いた紙を麗々しくお箱に入れる付加価値の付け方はその商品を物語ります。しかし、また、
実力というか実態以上に見せかける雰囲気作りで購買欲を喚起させる商いが行き詰まっているようにも感じています。見せかけ、今だけ、が大手を振って歩いている世相。

コストの面も勘定に入れねばなりませんが、代表の志が伝わるメッセージカードくらいあった方がいいようにも思うのでした。美幌のお菓子でこのメープルシロップを使ったものを並べて置いてあれば、ほう?と、手に取る人もいるのでは。物産館の棚づくり、そのような試みがなされる時もあるのかも、しれませんが。

 

 

雪の絨毯

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美幌役場の掲示板の人口統計表/電子ではない、特太明朝が力強い

 

本日体験住宅退出の日、
利用者は希望すれば役場の担当の方が住宅と空港間を送迎してくださるのですよ。
利用希望は夏が多く申込者は抽選の門をくぐるけど、それ以外では空いている時もあるようで、役場担当課に問い合わせてみると様子が伝わります。私は美幌滞在はこれで4度目、役場の体験住宅の利用は2度目、冬を体験してみようと12月下旬から1月上旬にかけての滞在を試みたわけです。

空港で予約していたレンタカーで市街地に入る。
美幌は空港に近いことが大きな魅力。バイパスを飛ばすと10分ほどで美幌の端っこが見えてくる。
12月、美幌はすでに雪に覆われていた。これまでとは違う風景に、数度の訪問でつかみかけてきた町の構図がおぼろになる。
曲がり角の目安が雪に消える、
車道と歩道の区別がつかない、
公園と民家の境も消える、
町が一枚の雪の絨毯となっている、運転席でうろたえる。

除雪車の活躍で道路表面がすっかり見えている幹線道路と違い、
町中の道路はどこも雪で覆われている、誰の屋根にも同じように雪は舞い落ちてくる。
降り始めの時はタイヤの溝の模様が帯状に走る、溶けてきたところが固まると厄介だ。
ここいら辺りは家家を分ける塀があまり無い、せいぜい低い垣根があるくらい。
降り積もる雪で家のまわりと道とがひとつながりになる。
雪国の暮らしのお作法、玄関のみならず自宅前の歩道まで雪をきっちりかく、ところもありますが、雪の降る期間は長い、始終書いているわけにもいきませんしね。北海道庁のデータによると、美幌は平均の降雪量は100センチ、札幌は140〜190。

なだらかな雪のひろがりに、雪のない景色の記憶を重ねて方向を定める。
轍でぬかるんでいる上をしずしずと車で進む。
北海道は札幌などの都市圏でなければ移動はくるまが基本、
道を歩く人の姿はあまりない、

車で移動すると気がつかないことはたくさんある、
町を歩いてみることにした。

 

f:id:bihoro009:20180111143502j:plain 拡声器搭載の街灯

どうして郵便局が音楽を流しているのか、立ち止まって道路の向こうを眺めた、
道向こうに美幌郵便局があるあたりに来るとどうも騒がしいとは思っていた。
街路の拡声器から流行歌が流されているらしい、美幌駅前の通りでも流れてくる。
なべて世のコンビニはいつも騒がしい、店内BGMで 繰り返しすことで広告効果を高めるためですが、商店街に近頃流行る歌を響かせることは活性化が動機なのでしょうが、効果のほどはどうなのでしょう。
なんだかなぁの空振り感、そこを足早に通り過ぎる。

歩く人もほとんど見かけない白々とした除雪の山々の谷間、
何かしら賑やかな音がしていると心が明るくなるのかな、一つパッと賑やかに歌でも、ということかな。

小麦の穂2

f:id:bihoro009:20180109194722j:plain 町の大通りに風見鶏

 

 今日、北海道は国産小麦の一大生産地ですが、北海道小麦のブランドの源に多くの先人の苦労があるわけで、
忘れられてしまったパンの王様のはなし。
戦前、マルキパンと呼ばれたパン屋があった。


イースト菌はパンをふんわりと焼き上げるためにとてもよく働く菌だ、
パン生地の発酵に向いた酵母を人工培養したもので、天然酵母に変わりはない、そうである。
安定した発酵が短時間でできるので機械任せにできて、大量生産も可能となった。味も安定した。
イースト菌国産化に成功して、イースト菌による製パン業とパン製造機械化の道を開いたのがマルキパンの水谷政次郎。

北海道の小麦が最もパンづくりに適していると知るや、丸瀬布、千歳、小清水村、北海道に小麦の大農園を興す。しかし、戦火による工場の焼失などの躓きが重なり、敗戦後は北海道の広大な各農場は農地解放の対象となり、彼は失意の中で1945(昭和25)年、小清水村でその生涯を閉じた。享年73歳。
小麦問屋に丁稚奉公をしていた時に初めて口にしたパンの味、そこから半世紀、パンと小麦を求め駆け抜けた人、政次郎が農園を開いた小清水は美幌のとなりのとなりに位置する、北海道に託した夢の小麦は今も小清水に輝く。

マルキパン、正確にはマルキ号製パン。
牛乳店を経営していた伯父木田卯作の後をつ継ぎ、木田の木を採ったマルキの屋号も引き継いた、こうした経緯があり、正しくは、もしくは本来は、マルキ号製パンであるようだ(商標は丸囲みにカタカナのキ)。
パンとチチ、パンと牛乳を組み合わせたミルクホールが大阪で大繁盛、日本のパン業界の重鎮とまでなった彼が戦争の時局に翻弄される様に読むのが辛くなる、しかし政次郎とゆき、創始者夫妻のおおらかなやりとりには味わいがある。
マルキパン、で検索すると全国にその名のパン屋がいくつもあるようですが、マルキ号製パンに勤めていた職人たちの形跡かもしれない、かと思うとまた楽しい。

小麦の穂

f:id:bihoro009:20180108224302j:plain mono森音の棚にあった付箋
 

町の中ほど、駐車場の中に取り残されたような古い民家が一軒、雑貨屋「mono森音」。

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床をはがしての改装の話などを店長にうかがう。
2年ほど前までカフェを併設していた時は水回りの手当が大変であったのだと。
寒さの厳しいところは水との付き合いが苦労である。

水が凍る寒さの土地での暮らしにつらつらつらおもいますが、
ところ違えば基本も揺れる。
氷とは水が固まったもの、これは「水」が基本の発想
水とは氷が解けたもの、これは「氷」が基本の発想

たてものの造作の話題はコンテナハウスの雑貨屋「near.」におよぶ。
町からやや離れたエリアにある、本職は農家、土日祝だけの営業だとか。

体験住宅にバックナンバーが揃っている『HO [ほ] 』(北海道の総合情報誌)、
雑貨と農園芸用品のお店「near.」は、2016 9月号 Vol.106に紹介されている。
「小麦の穂が色づくと、きれいなんですよ。この景色も見てほしくて雑貨店を開きました」
雄大な風景と長靴が履きやすいように工夫されたパンツ、行ってみたくなる組み合わせ。


小麦、そうだ、
美幌図書館で借りた本
『水谷政次郎伝 マルキパンの光と影』水知悠之介 新風書房 1988年

戦前、マルキパンと呼ばれたパン屋があったこと

大阪の商人水谷政次郎、「東洋のパン王」と言われた大実業家がいたこと
パン業界の重鎮でその人は丸瀬布、千歳、小清水村に小麦の大農園を経営していたこと

 

マルキパンのこと つづく

せんべいの記憶3

f:id:bihoro009:20180107192317j:plain 美幌小麦中太ちぢれ麺の包装デザイン

 

 

むかしの名所は今でも名所か、16枚それぞれをネットで確認してみました。

マッカウス(光苔)
風蓮の白鳥
クシロのタンチョウ鶴
神秘の摩周湖
クシロ駅
阿寒のマリモ祭
ラウス岳
クワンノンの岩
ノツケのエビ漁
風蓮の白鳥
ノサップの灯台
ペキン
屈斜路湖
ロウソク岩
車石
啄木の碑

16枚のうち風蓮の白鳥が2枚あります。
名称は同じだけど絵が違うのですよ、湖に浮かぶ姿と湖上を飛んでいる姿と、
なぜでしょうか、道東の名所は他にもあるでしょうに。

眼下に屈斜路湖のパノラマが広がる美幌峠、は屈斜路湖でまとめられ、
釧路湿原はタンチョウ鶴で描かれ、
オホーツク海の船舶の安全を見守った網走市の能取岬灯台ー1917(大正6 )年初点灯は、
1872年(明治7年) 初点灯の納沙布岬灯台に勝てず、
網走刑務所が映画「網走番外地」で人気になるのは戦後、
紋別市の流氷を楽しむ余裕は無かったのか。

いやそれよりですね、
鋳型は戦後間もなくの頃よそから買ったもの、だという前提で名所せんべいの話をしてきましたが、
一枚一枚を丁寧に見ていくうち、
あれ、ちょっと違うんでないかい、という懸念というより不都合な事実をクシロ駅に見ていまして、
近代的な構造のビル建築、戦前のようには見えません。
Wikiでは駅舎がビルディングのこのスタイルになったのは1961年(昭和36年)とありまして、
えーっと、まあ、名所の歴史は長く、これくらい誤差の内、としておきます・・・
鋳型を置いて焼き菓子を作る機械が昭和20年代のものだ、という話だったのでしょうかしら。

ともあれ、
選ばれた名所はより多くの人の思い出に残る姿をしています。
人々の記憶が土地の名所として語られ描かれる、かくして名所は地元せんべいとなって記憶されていく。

 

● 

 

 

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マッカウス(光苔)
幻想的な光を放つ「ひかりごけ」が自生する洞窟
夏季にはエメラルドグリーンに輝く。冬期は洞窟内に観音像風の氷柱も見られる不思議な場所として人気のスポット。

マッカウスとは、アイヌ語の「マカウシ」蕗(ふき)の多い所。
北海道応援のブログ
https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12137659011.html

 

 

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風蓮の白鳥1
毎年10月中旬になると数千羽のオオハクチョウシベリアから飛来し、風蓮湖は日本最大の白鳥飛来地となる。不思議な気配のこの湖は海水と淡水の入り混じった湖、オホーツク海と繋がっている汽水湖

 

 

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クシロのタンチョウ鶴
釧路市丹頂鶴自然公園はタンチョウ鶴の保護増殖を目的として1958(昭和33)年に設立。絶滅の危機にあるタンチョウを保護増殖するため、釧路市鶴丘に5羽のタンチョウが放された。

 

 

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神秘の摩周湖
「摩周ブルー」と呼ばれる、バイカル湖についで2番目に透明度の高い湖。
1960年代にヒットした歌謡曲霧の摩周湖」により有名になったといわれてる。

注ぎ込む川も流れ出る川もないのに水位はいつも変わらない不思議な不思議な湖は、多くの時間を霧が包み込みなかなか姿を見せてくれませんが、ふと千変万化のごとく美しく神秘的な姿を現します。
弟子屈なび
http://www.masyuko.or.jp/pc/sightseeing/masyuko.html

 

 

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クシロ駅
1961年(昭和36年)8月1日:民衆駅の駅舎に改築。RC構造地下1階、地上4階。
釧路市地域史研究会 『釧路市統合年表:釧路市阿寒町音別町合併1周年記念』 釧路市 、2006年10月)

 

 

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阿寒のマリモ祭
まりもは大正10年に天然記念物に指定、阿寒湖畔で行なわれる『まりも祭り』は、絶滅危機の国の特別天然記念物のまりもを保護する目的で昭和25年から開催されているイベント。
ですから、どうも戦前生まれの鋳型、では無いようですね。

 

 

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ラウス岳
知床半島にある最高峰で標高1,661 m。1964年(昭和39 年)に知床国立公園に指定され、2005年にこの山域を含む知床半島が知床 (世界遺産)に正式登録された。

 

 

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クワンノンの岩
知床岬のほど近くにある観音岩は、アイヌ語でレタラワタラ(白い岩)という。そのフォルムはまるで仏教美術の観音様だ。
たびらい
http://www.tabirai.net/sightseeing/column/0005099.aspx

 

 

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ノツケのエビ漁
三角の帆の打瀬舟、明治時代から変わらない漁法、
シマエビの住処であるアマモを傷つけないように、エンジンを止め帆を立てて風力で進む曳網漁。

 

 

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風蓮の白鳥2

 

 

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ノサップの灯台
根室納沙布岬。北緯43度23分、東経145度49分に位置する日本で一番東にある岬。
北海道最古の灯台、1872年(明治7年) 初点灯。

 

 

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ペキン
モイレウシ川から 1.5 km ほど北に進んだところで海に注ぐ「ペキン川」という川があり、その河口から 0.5 km ほど北に「ペキンノ鼻」という岩岬があります。
Bojan International

http://www.bojan.net/2015/05/24.html

北海道にペキンとはなんのことか、こちらのサイトでペキンの場所を知りました。

 

 

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屈斜路湖
阿寒国立公園にある阿寒湖、屈斜路湖摩周湖の3つのカルデラ湖のひとつ。日本国内最大。面積79.7km²、周囲57km、周囲を300~400mほどの絶壁に囲まれる。中央に大きな島が座る。

 

 

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ロウソク岩
同名の岩は日本全国あちこちに存在する。wikiには積丹にある奇岩の記述のほかに北海道にあるとして5箇所が紹介されている。利尻、苫前、瀬棚、厚岸、釧路。道東の名所だから厚岸か釧路のどちらかでは。

 

 

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車石
根室半島花咲岬。1939年(昭和14年)9月7日に、国の天然記念物となった。
直径は6メートルにも及びぶ。マグマが冷えて固まってできた粗粒玄武岩
中心から外側に向かって放射状に広がる模様の岩の車輪が
下半分が地面に埋まっているかのような姿はこちら↓。
北海道マガジン
https://pucchi.net/hokkaido/trippoint/kurumaishi.php

 

 

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啄木の碑

しらしらと水かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

 

石川啄木釧路駅に降り立ったのは明治41年1月21日の夜でした。 啄木は釧路新聞の新聞記者として76日間滞在し、その後、船で釧路を後にしました。
僅かな期間ではありましたが、新聞記者として社会論説や連載に精を出し、数多くの歌も残しています。現在釧路市内には啄木歌碑が27基ございます。
釧路観光コンベンション協会
http://www.kushiro-kankou.or.jp/takbok/

 

啄木の碑は全国に散見されるようで、北海道だけでもいくつあることやら。
図柄の形状から釧路の米町公園のものと認定。1934(昭和9)年建立。

1907年5月から1908年3月まで北海道に滞在。1年足らずの間の職歴。
函館商工会議所の臨時雇い
函館区立弥生尋常小学校の代用教員
函館日日新聞社の遊軍記者
北門新報社の校正係
小樽日報社の『小樽日報』記者
釧路新聞 (現在の北海道新聞社)に勤務

気まぐれ、確執、不遇、しかし捨て置かれない人柄であったのでしょうか、次々職を得ている、とも言える。
創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れた、ようです。
1912年明治45年4月文京区小石川(旧久堅町)の地においてわずか26歳の若さで亡くなりました。

せんべいの記憶2

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十島せんべい店の近くにある山本菓子舗、3代続く和洋菓子店。
パイ生地のおまんじゅう「美幌ロマン」の包みのデザイン、方位図の下に北緯43度35分の旅とある。
美幌の位置は
東経自 143度54分57秒・至 144度20分09秒(東西 33.8km)
北緯自 43度35分44秒・至 43度53分29秒(南北 32.9km)
では、35分とは?
こちらで名所せんべいの小売しています。ご親戚だとか。


「ロマンス製菓(昭和22年に津別町で開業)の下請けとして作ってたんだよー、
以前のものはカニの粉末が入っていたけどねえ。」
十島せんべい店では5、6種類のせんべいを商っている。出来上がりは一斗缶に入れておき、よそに出す小売分は袋詰めして積んでおく。名所せんべいを買いに来たというのに「こっちがいいよー」とカニの図柄のかにせんべいをすすめられた。

道東の名所せんべいの鋳型は、敗戦後間もない時に買い取ったもの、であるなら
それではいったいいつ製造されたのでしょう。
せんべいなどの焼き菓子の鋳型が作られるようになったのはいつ頃のことでしょうか。
最中の皮は明治期以降に現在の形の皮が完成したようですが、凸模様の美しいせんべいには150年続いているものがあるそうです。
私が八十島せんべいの名所せんべいに感銘したのは、商標や抽象的な図案ではなく、刻印されている模様がかくも具体的だということに対してなのです。
和菓子に見る抽象的図案とは洗練されたものですが、あくまで具体的にその名所を簡潔に彫った、具象という別の方向に打って出て何十年、来る日も来る日も焼き続けたその年月。
それでは道東のどんなところがせんべいの図柄として選ばれたのか、16種類一枚ずつ見ていきましょう。

つづく