ホッカイドウのハゲ マッチ擦る日 2

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シュッと擦ってボッと炎をこしらえる、あれね、軸の頭が発火するのではなくて、箱の側面のザラザラした茶色い部分が発火してのち頭に火が燃え移る、のですって。


マッチは19世紀欧州で発明され、明治初期には日本でも製造がはじまった。
日本でのマッチに関する記述は江戸末頃、蘭学者宇田川榕庵(ようあん)による日本初の化学の教科書『舎密開宗』(せみかいそう)に見られる。イギリスの化学者 W.ヘンリーの"Elements of Experimental Chemistry" (1799)の翻訳本。

舎密開宗のいったいどこにマッチのことが書かれているのかな?


巻7 第130章 燐 ではないかと推察される。
私の理科教師日記
http://rikadiary.cocolog-nifty.com/kusuda/2018/03/10-206c.html

日本海域研究 第46号 - 環日本海域環境研究センター - 金沢大学
http://www.ki-net.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2016/06/JSR_vol_46_full.pdf

 


マッチ棒の先の燃える部分(頭薬)とは(塩酸化カリウム、硫黄、ガラス粉を膠で練ったもの)。
硫黄が使われていたのです。(今では硫黄を含まないか、入っていても少量のものがほとんどである、そうだ)。

火薬などの原料となる硫黄はかつては鉱山から採掘される貴重な物質であった。明治期中頃、知床の硫黄山はゴールドならぬイオウラッシュとなっていたそうな。

北海道で硫黄山といえばアトサヌプリ屈斜路湖川湯温泉に挟まれたあたり、噴煙と鼻を突く匂い、そこは今でもゴウゴウと音を立てていると。行かねば、うむ。


明治期中頃の10年間、釧路鉄道という会社があった。硫黄山の経営権を手にした銀行家の安田さんの経営。

明治20年安田財閥の祖である安田善次郎は、硫黄山標茶間に北海道でも2番目という鉄道を建設し、大量生産・大量輸送を実施したが、乱掘によって資源が不足し、わずか9年で幻のように消えて行った。
弟子屈町の歴史とあゆみ
http://www.town.teshikaga.hokkaido.jp/05machizukuri/05gaiyou/rekishi.html


黄山は地質の影響からか樹木が育たず、古くは裸の山を意味するアトサヌプリと呼ばれたのですね。

標茶~跡佐登/41.8km 釧路線をクルマでたどる
釧路鉄道を訪ねて
http://pyoco3.c.ooco.jp/hokkaido/kusirotetudou/kusirotetudou.html


「旧安田鉄道跡地」を馬そりに乗っていく体験ツアーがあるとな、これは乗せていただきたいもものだ。


アトサヌプリ黄山の『ネイチャーホール』の展示では伝わらない
囚徒による川湯ーアトサヌプリ黄山の硫黄の採掘と、道路の開削工事の歴史、はこちらのサイトをどうぞ。
アトサヌプリでの本当の硫黄採掘の姿-博物館網走監獄資料より
https://blog.goo.ne.jp/goo5comodo/e/56bf1f391a1d94973446c34a9e7e8a04

 

駅はない、鉄道は消えた、枕木消えた、硫黄は今でもごうごう

 

マッチ製造は国の輸出政策として始動し、各地でマッチの製造が始まります。
北野工房のまち マッチ専門ショップ マッチ棒

http://match.or.jp/matchbou/about

 

 

大正14年に重要輸出工業組合法が公布され、マッチは同法の指定業種となりました。
電子じばさん館 http://himeji.jibasan.jp/match/domestic/index.html

 

明治期、生糸や絹に並ぶ日本の重要な輸出産業でありました。
ホッカイドウのハゲが日本を支えていた、ですかい?

 


マッチ擦る つかのま海に 霧深し ・・・・・
下の句を探しあぐねている、このごろです。