ホッカイドウのハゲ マッチ擦る日 1

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※合成写真です

 

ホッカイドウと呼ばれて150年、その前の名前? 忘れたわ。今はね、ホッカイドウって呼ばれてんのさ。いろんな生き物が行ったり来たり住み着いたり、そうねえ、そう呼ばれるようになってからのことなんだけどさ、なんかこう、むずがゆいことが多くってねえ、それがあなた、たとえばさ、ハゲになったの、ところどころ薄くなった、つるつるになったとこもいくつかあって・・・・・

 

北海道の森林開発の歴史を読んでいますと、こんな愚痴が聞こえてきましたですよ。

北海道に限ったはなしではない、森林の開拓が過ぎると、洪水などの災害につながるのです。局所的大雨に河川は溢れ家はつかる、道は見えない、畑も消える、ご飯も湯のみも流される、へそくりも貯金通帳も、布団も枕も思い出のアルバムも家の権利書も、仏壇だって流れて消える、水が引いても使いものにならない家屋、治水を法律が誤らせる、ってことなんだな。民は食うために木を伐る、より快適な生活のためにさらに伐りたい、だから管理が必要になる、大局に立ち遠くを眺めやる人が必要だ。100年の計を立てるのは政治のおしごとですのに、この夏にひっそり?決まった某森林法、それからあんなことこんなこと、頭がハゲになりそうなことが立て続けに・・・待て待て、今回のお題はマッチであった。

 

マッチの軸、これに適した木がホッカイドウにはたくさんありまして、ヤナギ科の白楊樹(別名ヤマナラシ)やドロノキを丸太にして茹でて桂むきにしてマッチ棒にして港から出荷、大阪、神戸のマッチ製造業者がマッチに加工する。中国などアジア諸国にも輸出されるなど、マッチは明治期日本の重要な輸出品でした。こんにち生活においてマッチを擦る機会もめっきり減りましたが、明治大正昭和前期まで、煮炊きに暖とりタバコにお線香にとマッチはなくてはならないものでしたから、そうなんです、鉛筆にするためにオンコさんを伐りすぎたように、マッチにするためにドロノキさんたちも伐られすぎて、さてもホッカイドウは9割近くが森林で、道東においてはマッチの製軸工場があちこちに出来たのは明後期から大正あたり。


前回の鉛筆に続いて北海道の森林事業を小さなものから見てみよう、マッチを取り上げます。

豊富な森林資源をようする北海道は、マッチの軸木やマッチ箱(むかしは木製だったのです)の半製品を多くになってきた。それらの多くは神戸に送られそこから世界各国に輸出された。神戸以外のものが国内消費となっていたようです。

燐寸(マッチ)製軸業
マッチ製軸工場をネットで検索してみました。

1891(明治24)年  山田製軸所 網走村 明治30年には藻別村
1895(明治28)年  鈴木八重蔵製軸所 鐺沸村
1896(明治29)年  岩田製軸所 藻別村
1897(明治30)年  三東製軸所 澤木村
           斜里軸木製造所 朱圓村          
           神戸製軸工場 紋別オムサロ
1898(明治31)年    酒井製軸所 紋別村
           小松内製軸所 幌内村
1901(明治34)年  信太寿之 紋別新部
1902(明治35)年  鈴木浩気製軸工場 野付牛村
           丸玉製軸工場(現丸玉木材株式会社 津別)
1903(明治36)年  中沢製軸工場 遠軽

他には
湧別の柴田友蔵、釧路から訓子府に進出した草野製軸訓子府工場  訓子府町
西製軸工場のち大正7年に大東燐寸(マッチ)株式会社設立
森製軸所 杜製軸所 蛎崎製軸所 日本燐寸株式会社猿澗工場 など


北見は白楊の最大生産地、43年には18もの工場が乱立していたが、原料の欠乏により相次いで閉鎖。
44年に山火事で白楊が全滅すると北見の製軸事業も終わる.
大正期にはいると神戸に陸揚げされる軸木の原木は年々減少、ロシアからの輸入が急増。
さっぽろ自由学校「遊」/マッチ産業による有用樹の集中伐採より 
http://www.sapporoyu.org/modules/sy_html/index.php?f=chosa-yanagisawa


(社)日本マッチ工業会が昭和25年(1950年)に発刊した 『燐寸(マッチ)要覧』 によると、 大正初期から昭和3年ごろまでの軸木は、沿海州(現在の極東ロシア)の白楊(はくよう)が約90%、北海道産 ・樺太(からふと)の白揚およびドロの木が、約10%の割合で、輸入材の多くは、兵庫県内(主として神戸市内)の製軸(せいじく)工場で加工されたようである。
燐寸博物館 http://www.tanaka-match.co.jp/museum/kaisetu.htm


当時某マッチ会社から派遣された『軸木原木探究者』は栗毛の馬に跨って北海道の原野を跋渉し、宝庫の鍵を探し求めた
○燐寸盛衰記/並木六壷庵/神戸新聞/昭和2年
網走のマッチ製造業 http://hokkaidonobunka.sapolog.com/e4371.html
殖民の始まりとマッチ製軸業 ~先進的だった紋別地方開拓期の林産業


明治44年の網走港の総移出額は,37万ほどですが,その4割近い,10万円ほどがマッチの軸木の金額
http://houhouken.web.fc2.com/imanarikura.htm

 

さて、美幌町ではどうだったのでしょうか。
美幌町林業は古梅からはじまったといわれている。(美幌叢書第9号 入門 むかしの美幌)
1912(明治45)年に東洋燐寸(マッチ)製軸工場ができた。網走ー池田間に鉄道が開通したのです。
鉄道が開通するまでは古梅の白楊を網走川美幌川を使ってイカダを組んで流送して網走の大曲の山田製軸工場まで運んでいたのですって。しかしこの工場は1919(大正8)年に閉鎖と成りました。

東洋燐寸株式会社とはマッチ王と呼ばれた滝川弁三の東洋最大と称されたマッチ会社。

 

網走の港から神戸に向けて、兵庫県で生産されたマッチは神戸港から世界に向けて輸出された。
港、海、マッチの炎、
マッチ擦る つかの間海に霧深し・・・・


マッチ箱

マッチの箱は紙ではなく経木であった。
マッチの軸は木、そしてマッチ箱も昔は紙ではなくて薄い木でできていました。主に松燐寸博物館 http://www.tanaka-match.co.jp/museum/kaisetu2.htm

1954(昭和29)年には京都製作所において紙製のマッチ中箱を作る中箱製造機が完成し、経木の小箱から能率のよい紙製の小箱へと変化していった。
マッチの世界 http://www.match.or.jp/history/index11.html

経木とは主にスギ・ヒノキ等の材木を紙のように薄く削ったもの。駅弁や菓子折りなどの箱でおなじみ、納豆や刺身など食品を包むのに使う。プラスチック製に追われてしまいましたが、今でも目にすることはあります。復活望む。


つづく