鉛筆と北海道

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キャンプ場に隣接する美幌博物館の特製手ぬぐい

 

キャンプ場には様々な樹木がお名前の札を下げてある。

キャンプ場入口にあるのは美幌の町の樹であるイチイ、オンコとも呼ばれる常緑針葉樹。

このオンコさんは鉛筆の軸材とされたのですって。

 

イチイ(一位、櫟、学名:Taxus cuspidata)は、イチイ科イチイ属の植物。またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。別名はアララギ。北海道や北東北の方言ではオンコと呼ばれ、アイヌからはクネニと呼ばれた wiki

 

年輪の幅が狭く緻密で狂いが生じにくく加工しやすい。

羽根状に付く葉の一本一本は短くふっくらとした針で先は尖っているけどむずいくらい、

初秋に赤い実がなる、種子は毒を含む。

 

雌雄異株、北海道ではサカキやヒサカキなどがないため、神前の玉串にもイチイの木が使われています。https://kurashi-no.jp/I0012308

 

 

美幌に近い斜里の町には樹霊塔があるのです。樹の慰霊。

「斜里原産オンコは優れた木質が最高適材に選ばれ北海道鉛筆原板発祥の地となり斜里町財政を支えた」一位樹霊塔の説明より

下記のアドレスに画像がご覧いただけます。

北海道応援のブログ

https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12224170437.html

 

大材は北海道方面、育ちが遅く材は緻密であって、淡赤色、弾力があり国産鉛筆として最上であった。イチイを原料とする鉛筆軸木工場は大正初期から昭和初年に掛けて資源の豊かな北海道の斜里地域に水車を動力とする鉛筆軸工場が15工場操業を開始した。昭和8年には鉛筆軸企業も広域化し、斜里中心に道東一円30工場が操業した。【土橋勝利】

木のメモ帳

http://www.geocities.jp/kinomemocho/zatu_pencil.html

 

 

(ところで、斜里の町の樹はミズナラ 町の樹とは誰がいつ決めたのでしょうね)

 

この樹は鉛筆の板材として伐採されすぎた、それで供養しましょうとなったわけか。

全国の鉛筆の6割は北海道の木材であったとか、そうですかー、北海道のオンコは日本の知を支えてきたのだと言ってもいいのではないでしょうか!

 

「ボクも!ワタシも!えんぴつ大好き」 日本鉛筆工業協同組合のサイトを見てみましょう。

http://www.pencil.or.jp/index.html

 

昭和15年の記録によると、北海道産の軸木板としては、オンコ30%、シナ10%に対してヤマハンノキは実に60%を占め、数量にして216万グロス鉛筆板工場は、昭和17年で全国に48ヵ所あり、このうち半数以上が北海道にあり、主力の20工場で北海道鉛筆材工業組合が結成されていた。鉛筆板の販売は、この組合を通して、同組合東京出張所より、組合指定販売人に卸され、ここから鉛筆製造業者に渡る仕組みになっていた。

(白羊鉛筆40年のあゆみより)

 

北見材と言ってサロマあたりの木材が鉛筆材にされた。なるほど、鉛筆材の製材工場が多かったのか。北見材、ふむ、明治期は網走あたりを北見と呼んでいたそうな。

明治末に佐呂間に製材工場を作った北星鉛筆の全身は昭和18年には釧路に本社を構えている。

 

きたぼし、と読む。北星鉛筆は現在は東京に本社を置く老舗の鉛筆会社のサイトに当たる。

 

屯田兵として北海道に渡り、鉛筆の板「スラット」を製造する会社を設立して全国に販売していました。

筆を使う書記であったこともあって、これから大量に鉛筆が必要な時代になると察知し、鉛筆の板材の製造を始めたようです。

その後、関東大震災で経営の行き詰った鉛筆製造会社を引き継ぎ、現在の地に会社を設立しました。

きたぼし

http://www.kitaboshi.co.jp

 

 

「スラット」と呼ばれるハガキ大の板に溝をつけて鉛筆の芯である黒鉛をおいて板で挟んで軸幅に切っていくのですな。板の加工はこちらをどうぞ

http://www.pencil.or.jp/museum/museum.html

 

 

まっすぐに伸びる幹と綺麗な円錐形を保つ樹姿が美しい。

北海道や東北北部などの寒冷地では、和風庭園の主木、生垣、植え込みの定番となっている。

オンコの姿形はこちらをどうぞ 

庭木図鑑植木ペディア

https://www.uekipedia.jp/常緑針葉樹/イチイ/

木のメモ帳

http://www.geocities.jp/kinomemocho/zatu_ichii.html

 

 

えんぴつになって消えていったたくさんのオンコさんたちでしたが、

町の樹オンコは美幌の町でいたるところでお見かけます。

見上げる高さに盆栽の枝ぶり、街路樹のあれは何?

 

松なの?

庭木を手入れなさっておいでのお宅にも幾つかお見かけします、最初見たときは理解が及びませんでした。和風庭園にある松の剪定と言いましょうか、盆栽の枝ぶりと申しましょうか、近寄ってみまして、

 

いえいえあれは松ではありあません、あれはオンコ、紡錘形が美しい姿を松の剪定かのごとく内地風に刈り上げているではありませんか。

いやーどうにもこれはなんともいやはやでございます、いやいやしかしながらですね、美というものは力学にいう力の釣り合いの点のような瞬間に現れる、いわゆるある種の見え方、でございましてですね、云々

 

ここ北海道では違う美的感覚が強く作用しているゆえの現象である、と考えてみる。

冬なぞ厳しい寒気の中、縮こまった葉でいっそうあずましくない、と感じた己を納得させる。

 

 

鉛筆からみてみた北海道の樹、それでは次はマッチからみてみたくなりました。マッチの製軸工場が多かったのですよね、、大曲(網走市)に北海道最初の製軸工場が設立されたのは明治20年頃のこと。

 

つづく

 

えんぴつのおまけ

 

筆記用具

1943年頃から、トンボ鉛筆は「敵性語の撃滅!」と題した新聞広告で、鉛筆の濃さの表記を以下のように変えると告知した。

「HB」→「中庸」(ちゅうよう)

「H」→ 「1硬」(こう)

「B」→ 「1軟」(なん)

 

 

鉛筆のはなし(北海道を中心にして)

文具資料室

http://karikachi.kitunebi.com/bungu/enpitu.htm

 

 

ネットで見つけた 2018/06/19 - 鉛筆収集家にきちさんの日々のつぶやき. ... 

https://twitter.com/nikichi73

 一番活気があった昭和33年頃からの大まかな北海道内のスラットの生産量と製材所をほぼ把握出来そうだ。やっていた本人も資料を持っていなかったり忘れたらしているからこれは大変な発見だ。

 

二・二六事件の頃、とある木工場でヤマハンノキ材の鉛筆板が開発された。開発したのはO氏となっているが、僅か数ヶ月後にI氏が鉛材工場を本格事業化したのは無関係では無いだろう。意外なのはハンノキ材は既にドイツで鉛筆になっていたということ。ヨーロッパで広葉樹の鉛筆?

 

1920年代中頃には、フランスの鉛筆はシナやハンノキで作られるようになっていた、と「鉛筆と人間」に記述がある。これなら世界的なレッドシダー不足が予想される中、厚岸からオンコを鉛筆用に輸出しようと考えるのも理解出来る。(大正時代の話)

 

  

日本鉛筆工業協同組合 鉛筆組合史年表より

 

明治42年(1909)北星鉛筆の創業者だった杉谷安左衛門が、道内のオンコ(イチイ、アララギの北海道方言)を鉛筆の軸木板として使用する。北海道材が、鉛筆の歴史に初めて姿を現わす。

 

・ 眞崎仁六の眞崎鉛筆製造所が現在の三菱鉛筆株式会社に、また河原徳石衛門の門下生の杉江鉦三郎と共に鉛筆づくりを始めた小川作太郎が、現在の株式会社トンボ鉛筆に、それぞれ発展している