赤い靴を履いた探検家2
北海道に初めて行ったのは28歳の時、それから41歳までの間に6回歩き回りましてね、いろいろなことがわかって、あれこれ伝えたくて本にしたのですけどね、150冊ほどにもなりますか、大手の出版社から出たものもありますけどね、多くは自費出版でしたよ、訪れた土地の地形を絵図にして、そこいらのあたりはなんと呼ばれているかをカナで細かく書きこんで、私まぁ手の動くほうでして、サラサラっと、ふふ、その土地に暮らす人々の様子も筆にしたり、いぇね、本にするときはホラやはりね、人気のあるプロの絵描きに頼んだものでしたよ。
松浦武四郎、幕末の探検家、彼は攘夷の志士であった、ようですが、身分は百姓、伊勢育ちで伊勢参りの人々の姿に諸国回りを夢見る少年でした。ハイティーンで生家を離れてからは、全国を回る旅、出家して長崎におりました時に耳にしたロシアの南下に危惧を覚えるや、韋駄天武四郎、エゾと呼ばれる北の島々に飛んでいく、北の守りに必要なのは地理をつまびらかにすることであると、達者すぎる歩行で蝦夷や樺太、国後、択捉などを駆け巡る、江戸で蝦夷に関する本をたくさん上梓し、蝦夷通と知れ渡るほどになるのですけど、長いこと蝦夷を縄張りとしてきた松前藩にとっては迷惑な人、危険人物、仕切ってるエリアに断りもなく乗り込み、山脈水脈道路集落、綿密な出来の蝦夷地図や土地の人々の暮らしや言葉を記録して本にするやら、松前藩の奸商とのよからぬあれこれを告発するやら、松前藩は松浦さんに刺客を放った、のだとか。江戸などの学者さんたちも、分をわきまえぬ奴よの、学歴ないくせに、とくさしたんですってさ。
道なきを駆け抜け、エゾだけではなくカラフトもクナシリもエトロフもまわる、ラッコがぷかぷか浮いている北の海で丸木舟に揺られる、アイヌの言葉も覚え辞書も作る、ときたもんだ。
では、北海道という言い方は松浦武四郎が命名、というワンフレーズ濃縮過程をみてみましょう。
蝦夷とは中央政府から見て異民族を指す言葉で、これからは日本として運営していこうというのだから、それにふさわしい名前をつけるべし、となりまして、
武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼され提出した「北海道命名に関する意見書」の中で、6つの候補名をあげた。
北加伊(ほっかい)道、海北道、海島道、東北道、日高見道(ひたかみ)、千島道。
六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられた。
が、しかし、
開拓長官の鍋島直正(まれにみる賢君と呼ばれたようです)ら要人らの間で話し合いが持たれて
「加伊」の部分を「海」とし、「北海道」と決定されたようだ。
>「北加伊道」に込められた想い
「加伊(カイ)」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて、「北加伊道」という名を提出しました。
(たけしろうカンパニー https://www.takeshiro.co/blank-8
1867年(慶応3年=明治0年)の7月から9月にかけてのことである、
ふむふむ、開拓の長官と要人ら、ですか、
なんだかね、テレビに見る再現ドラマの映像が浮かんできませんか?
詰襟高くヒゲなんかご立派の様子の旦那方がしかつめらしく、
う~む、ごにょごにょ
加伊はなあ、なんて。
場所は?北海道庁の会議室?旧北海道庁とは、煉瓦造りの西洋建築、1888(明治21)年に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築。このたてものはまだなかったですね、その前身の開拓使札幌本庁もまだなかった頃ですし、では、江戸ならぬ東京のどこか、開拓使庁の建物か、それはさておき、
松浦さんはこの決定をどう思ったのかな?
スクロールし続けますと、こんな文言が、
>当時の武四郎は,北の海の世捨て人を意味する「北海道人」という雅号を使っていたため,「北海道」という字を使うと,自分の雅号を名称にするなどおこがましいという批判が出るので,それを避けるために,「熱田大神宮縁起」に出てくる「加伊」の文字を用いたとされる。武四郎が開拓判官に登用されたことを妬む者も多かったのである。
三重県ホームページ http://www.pref.mie.lg.jp/DOKYOC/HP/20454021135.htm
>「熱田神宮縁起」という古い本の中に「東の方に住む人々は、自分たちのことを加伊と言う」とあることを指摘し・・・・・
アイヌ民族を愛した松浦武四郎 山本命 松浦武四郎記念館学芸員
https://www.frpac.or.jp/about/files/sem1622.pdf
>「道(どう)」というのは、律令国家りつりょうこっかの地方行政の基本区分です。起源きげんは古代中国で、それにならって日本でも天武朝てんむちょう(7世紀後半)に成立しました。
みやこに近い5つの国(山城やましろ、大和やまと、河内かわち、和泉いずみ、摂津せっつ)を畿内きない五カ国とし、それ以外を7道(東海道・東山とうさん道・北陸道・山陰
さんいん道・山陽道・南海道・西海さいかい道)に分けました。・・・すでに古代から、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。
(北海道庁ホームページ http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/faq/faq02.htm
>武四郎は「天塩日誌」の中で「北海道」命名についてふれている。
音威子府村には「北海道命名の地」の碑が立てられているが、そこのエカシ(長老)アエトモに「カイナー」の意味をたずねたところ、「カイ」が「この国に生まれた者」、「ナー」が敬語と聞き、「北加伊道」という名前を思い立ったという。
(江別市立対雁小学校ホームページ http://www.ebetsu-city.ed.jp/tuisi-s/matsuura.html
>アイヌと付き合いのある多民族によって「クイ」のような音で呼ばれていた、ということなど・・・「北海道」という地名には、同じ土地に対する先住民であるアイヌの人たちの視線、近隣の異民族の視点、そして侵略者、植民者としての和人の視点の抗争の歴史が潜んでいるということである。
(記憶の彼方へ http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070915/1189864556
和本の画像があずましいサイト
(松浦武四郎記念館 https://takeshiro.net/about
彼は幕末時代からの蝦夷通として、維新後、明治政府に雇われて開拓判官(今でいう次官に匹敵)にまで出世したのですが、明治3年西暦1870年、わずか半年後ですか、
役人を辞めてしまうのですよね、明治政府のお勤め、いやんなったわけだな、
藩幕体制から続くアイヌ民族への抑圧と搾取、アイヌも「日本国の民」であろうに、近代国家(!)としてどうよ、そもそも人としてどうよ、こんな体たらくで北の守りなんかできますかいな、ってなところでしょうか。
そのあと、1888(明治21)年に亡くなるまでは、執筆したり、方々歩いて好きなモノを集めたり、山に登ったりのお暮らしだったようで、いい晩年かと思われます。
宮勤めお辞めになったのは、北海道開拓の方針の違いが原因、とかゆい説明がありますが、まあ、松浦さんのお考えが開拓政策に反映されなかった、「ノンキャリ」ゆえ軽んじられていたようで、それでやんなっちゃった、のでしょうが、それだけでなくて、お役所仕事のデスクワークより歩きたかった、というところもあるように思うのですよ。
女の子が赤い靴を履くと、靴が勝手に踊って止まらなくなってしまうーアンデルセン童話では、教会に行くのに黒ではなく赤い靴を選んだことへの罰として、という内容ですけど、黒い靴より赤い靴を選ぶ、それはたとえば、こころに赤いトゥシューズの、踊り続けるバレエダンサーのようだ。
憑かれたように歩く、彼の一生とは、踊るような旅であったのかもしれない。
記録、大事です。
バイトしていた店の棚に松浦武四郎の本もありました。
北方民族のライフスタイルもしっかりチェック。
・北蝦夷餘誌
カラフト(現在のサハリン)南部紀行本。
「北方民族の家建方」住居のタイプのひとつ、テント。
狩猟採集のライフスタイル。
木の枝などで枠をつくり、樹皮や獣の皮で覆う。
右の2つはタライカ人 左の上はニクブン人(ニブフ) 左の下はヲロツコ人(ウィルタ)
カラフト南部はアイヌ民族が、中部以北にウィルタ民族、北部からアムール川流域にかけてはニヴフ民族が暮らす土地であった。
タライカとは、北知床岬の湾多来加湾のことか。
古典籍が画像で見られる
早稲田大学 古典籍総合データベース
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_02176/ru04_02176.html
美幌図書館にで借りた参考資料を付記
北加伊道 松浦武四郎のエゾ探検 関屋敏隆 ポプラ社 2014
これは絵本、武四郎のあしどりや蝦夷の地やアイヌの暮らしぶりや彼らとの交流が描かれている。型染版画という手法ですって、木版画の線よりやわらかい。
ほっかいどう百年物語 中西出版 2002
松浦武四郎「刊行本」書誌 高木宗世芝編 北海道出版企画センター 2001
最後に、ネットでゲット美幌情報
美幌町生まれの元・中学校教員、北見市内在住の男性のお著書を紹介
>第22回林白言文学賞にの伝記「北海道 150年郷土に残した『松浦武四郎の足跡』」(さいはてのふだん記発行)が選ばれた。
「松浦武四郎の足跡」は北海道の名付け親でもある松浦武四郎の生涯をたどった伝記。ほとんど未開拓の蝦夷地をアイヌ民族と交流しながら歩いた武四郎のことを、定年退職後から長い時間をかけて調べ、一冊にまとめた。 「このオホーツク地域を丁寧にたどっているところが新しく、非常にわかりやすい内容で子どもも大人も満足できる、松浦武四郎の素晴らしい入門書」(平野議長代行)と評価。
美幌音楽人加藤雅夫 http://masaokato.jp/2017/12/24/001417